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映画監督 大林 宣彦
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OKWave > 10Question > vol.28 映画監督 大林宣彦

N:ナレーター  O:大林監督

重松清さんの『その日の前に』に含まれていたその他の短編『ひこうき雲』など7つ全てのエピソードを含めたストーリーに仕上げていますが、最初から全てを盛り込もうと思っていたのですか?
「その日のまえに」

はい、そうです。大体2時間の映画を脚本にするとなると150P〜160P程度なのですが、この原作を150Pにまとめるのは到底ムリです(笑)。 メインとなる最後の3編は原作では、和美しか書かれてないんです。息子2人(健哉と大輔)の名前のみで、ご主人の名前はないんです。僕は息子の名前を一文字ずつとって、健大という父親の名前をつけました。

この3人のドラマだけで充分2時間ドラマとして完成するのですが、僕は、重松さんがこの7編の短編を書いてるうちにどんどん膨らんで、結果「連作」となったという経緯をお聞きして、とても面白いと思っておりこの単行本1冊を映画にしようと決めていました。 脚本は市川さんに3年前に頼んであり、その間に助監督の南柱根君に原作どおりに1節ずつ7編ならべた台本を書いてもらいました。でもそれでは上映時間がざっと4時間ですね。 そして去年、市川さんと南助監督と『やはり、この7編を凝縮した1本の映画を創ろう!」となったんですね。この4時間の台本を半分にすればいいのではなく、コツは1時間に縮めるんですよ、そしてもう1時間は映画によるオリジナルで膨らませれば独立した映画作品に仕上がります。しかしねー、4時間あったものを1時間に縮めるとなれば、捨てるわ、捨てるわ・・・・・・・。原作のいいところは殆どなくなっちゃって(笑)。さらにそこに、市川さんが映画的に加えたものが、とんでもないもので(笑)。

1ヶ月も放ったらかしにしちゃったんですよ、だって、いいも悪いも答えようがなくてね。市川さんが加えたのが、小日向さんが演じたDV男の話がたくさん詰められていて、台本の1/6くらいあって、僕は「オイオイ、これどこまでやるの?」と思ったのですよ。 でも、結果としてあそこに現代があるんですね。昔なら悪人は悪人面で、善い人は善人面で出てきてはじめから分かっていたのですが、今は現実の犯罪事件でも、いい人か悪い人かわからない。ごくごく普通の人でしたという人が、とんでもない犯罪を犯してしまう。そういう人間のわけが分からなくなってる時代ですね。そして、そのわけのわからない人間を演じられるのは小日向さんで、彼をキャスティングできればこのシーンは生きると思いました。このDVの夫婦をいれることによって、この作品に時代のアイデンティティーを見ることができます。

市川さんはそういった映画のシナリオをすごく勉強している人なので“技”を入れてきたんですね。全く観客が映画に求めているものとは違う「一発ぶち込んで、リスク背負いながらも、それでどうなるのか!」という市川さんの冒険ですね。

もう1つが、宮沢賢治。映画の主人公の宮沢とし子です。なぜ、宮沢とし子なのかと。
原作をもう1回読んでみると、「その日」の章の中に宮沢賢治について17行程度で書かれているだけなんです。それも、どういうわけか夫が宮沢賢治が今日のうちに遠くへ行ってしまう妹のことを思い出して息子に話しているだけなんです。それを後で調べようね。と語っているシーンだけなんです。こんなシーン、本来なら最初にカットですよ(笑)。それを、市川さんはどういうわけか持ち込んで、こともあろうにとし子が和美が死ぬ病室の横にある結核病棟みたいなところで寝てて、宮沢賢治らしき人に見送られて死んでいく。と書いてあるんですよ。なんだ、こりゃ!こっちは癌でそっちは結核の話かよ。しかも昔の宮沢賢治の妹が死んでいくなんで、幻想モノだよね。そして道で「Here comes the Sun」を」歌っている芸人の女の子カオルクンが2役で演じればいい。と書いてあるんですよ。ますます混乱するしわけわかんねーな、と思ったね。でも、市川さんだから何か考えがあるに違いないんだと思ったんです。

ハッとね天からの声が聞こえてきてね。「いや、待てよ。カオルクンをもう宮沢とし子にしたらどうだ。」と、そして、カオルクンがとし子としてやはり病に侵されているのはどうかと。
生と死の映画にすればいい。と。僕はこの映画化にあたって悩んだのは、死んでいく場面は撮りたくないな。と。死んだといったって、息止めてるだけだからね。でも、もちろん本当に殺すことはできない。映画の中で“死”ほど不自然なものはないんですね。じゃぁ死人の役なんてできるわけないのだけれど、その限界に挑戦するのが芸術の面白さだと僕は思っているから、死の場面を描くのではなく眠っているだけでいいだろうと思っていました。これをどう映画的にストーリーとして処理しようかと思ったときに、そうか!宮沢とし子が『永訣の朝』唱えながらベッドに横たわって目を閉じる。次のカットで、和美が安らかに寝ていればいいんじゃないかと思った。だから、カオルクンは宮沢とし子にして、賢治の『永訣の朝』を詠っていればいいんじゃないかと。さらに、いや!和美もとし子にしてしまえばどおだろう。と。しかし、原作の大切なヒロインの名前を勝手に変えるのは罪深いことであろうと、恐る恐る重松さんに聞いてみたんですね。そしたら、これは大林さんの作品ですので、好きにしてもらっていいです。ただ、今の40代でとし子という名前は、あまりにも古臭くて、滅多にないですよ。と。言われて見れば確かにそうなんですね。

違和感は誰に聞いてもありました。でもそこでこう閃きました。「よし!じゃぁその違和感も和美いや、とし子自身も自分の名前に違和感を持っているぞ。」としました。
しかもその名前はお父さんが付けてくれた名前だから、親孝行な自分としては大事にしていますが、父親は宮沢賢治が大好きで、宮沢賢治の妹さんの名前をつけて、子供の頃から宮沢賢治の詩を読ませて聞かせてくれて、自分も宮沢賢治が大好きになってしまった。でも自分は親孝行だしわたしは“とし子”という名前は好きよ。と思っているとし子が生まれたんです。

そして、とし子と名づけた親父を出そう。つまり僕自身ですよね。しかもその親父は宮沢賢治と同じ岩手の生まれで、宮沢賢治が大好きで娘にまでとし子という名前を付けてしまった。と。それに対して孫がですね、「ママにとし子って名前をつけたのはおじいちゃんなの?それで、ママは死んでいくの?」というセリフが聞こえてきたんですよ。出来た!!!と。これでこの映画出来た!と思い、そこで見えたわけです。故郷も宮沢賢治の故郷に変更させてもらって、山田辰夫くんに、言うなれば僕の父親を、そして、恭子さんの父親を、美しく家族や子孫を愛しながらも、どこかで頑固に自分を崩せない不幸を背負っている日本の男を描こうと、それがとし子の父親で、そこで僕自身のアイデンティティーも見えたので、『これで俺の映画になるぞ!』と見えたので踏み出せました。

 
「その日のまえに」

更にもう1つすごい偶然の必然ですけども、平仮名のとし子は『永訣の朝』の中の作中人物なんですよね。実在の妹さんはトシなんですよ。『永訣の朝』を書いているとき、賢治は大恋愛をしているのですが、なぜか妹の死と同時に恋愛も終わらすんですよ。
多分僕が思うに、もう生も死も分けて考えるのはやめようと。つまり、恋愛は生きている人の技であって、死んで恋愛はできませんので、だから生きている側だけの人間であることをやめようと彼は思ったのではないでしょうかね。妹トシの住む世界の住人にもなろうと。思った瞬間に生きている現世での恋愛も捨てなければならないと覚悟して、恋人と別れ、妹トシを送った詩だから『永訣の朝』であって、平仮名のとし子に託したんでしょうね。

更に怖かったのは、カオルクンを宮沢とし子にしてセロの弾き語りをしたんですけど、彼女のバンドの名前を作ろうということになって、印刷所が原稿を取りにくる待ち時間の間に“クラムボン”という名をつけたんですよ。“クラムボン”とは宮沢賢治の「やまなし」という短編の中にあって、昔から僕は宮沢賢治の作品を映画化するのであれば「クラムボン」を映画化したいと夢にみてたんですが、クラムボンは姿、形は書かれてないんですね。どういう形をしているかなど書かれてないんですね。ただ2匹の蟹がクラムボンを見て、語っているだけなんですよ。一番映画にならないんですよ、実態がないので、造形のしようがない。でも僕にとってはこれこそが映画的純文学の極みのような存在なんですよね。それで、クラムボンってつけちゃったんですよ。それで、「カオル」改め、宮沢とし子のバンド名を“クラムボン”にしたぞ!と、一番若い助監督さんに言ったんですね。そしたら、「わーー、わたし、クラムボン大好きなんですよ!」「おー、お前宮沢賢治知ってるのかね。」「は?クラムボンですよね?」と、どうも話が噛みあわなくって、よくよく聞いてみると、「クラムボン」というトリオのバンドが実際にあって、若い人たちに大変人気があるそうですね(笑)。 すると僕の娘のちづるさんは、たまたまヴォーカルの原田郁子くんと美容院が同じようで、これで曲を書いてもらおう。ということで、主題歌を担当していただきました。

さらに、さらに怖いのが!実はこのクラムボンという生き物が出てくる「やまなし」が、妹トシの死後最初に賢治が書いちゃった小説なんですよね。しかもこのクラムボンとは、トシのことであったという、かなり信憑性の高い学説もあるわけですね。
いやー、怖かったですね、僕は。そんなこともあって、宮沢賢治が導いてこの映画ができたともいえる映画です。

筧くんがやった男は「潮騒」の中の登場人物だけど賢治的であるし、駅長くんは間違いなく「銀河鉄道」に見えるし。

何か宮沢賢治がいざなってくれていて、雲の上を触っていたら、ささやいてくれたとでも言えるかもしれないです。

ネガティブなイメージである「死」と希望や夢といったイメージの「ファンタジー」という一見相反する2つを融合させたのは、どういう意図があるのでしょうか?
「その日のまえに」

非常にいいこと仰りますね、あなたは。まさに「ファンタジー」とは希望であり夢であります。分かりやすくいうと現代社会において「ファンタジー」は“平和”ですよね。

“平和”とは戦争がないことですが、どう考えても戦争はなくならないでしょう。今の社会、つまりリアリズムの世界で戦争がない平和を願うことは、「ファンタジー」です。現実では戦争はなくならないけれど、僕たちは戦争のない平和を願う。そこに「ファンタジー」が存在するのであって、残念ながらその「ファンタジー」は芸術と文化の中でしか存在し得ない、夢でしかないけれども、でもこの夢を信じていれば、いつかやっぱり戦争よりは平和のほうが幸福で誰にとってもいいはずだから、実現するかもしれない。そういうことを信じて文化や芸術は役割を果たしているんだと思います。だから、僕は映画というものは原則的に「ファンタジー」でなければならない。と思っています。

僕が愛してきた1960年までの映画は全てファンタジーでした。
この頃の映画を一言でまとめるとすれば、『人とは、傷つきあって、赦しあって愛を覚える生き物です。」をテーマにどの映画も描いてきています。 人は一人では生きていけない。2人になれば兄弟だろうと親子だろうと恋人だろうと、Generationが違い育ちが違い価値観が違い幸福感が違うんだから、必ず傷つきあいます。

60年代までは、何故違うんだろうね。ということをお互いに話し合って、理解し合い、許しあえば、こんなに違うキミと一緒に暮らすことはむしろ補い合って幸せなんじゃないかと、その喜びの形を『愛』とよんでいたんですね、当時は。けれども傷つきあうならば愛は要らないよ、と現代の社会はなってしまったんだね。街角でケンカがあります。それはそれで見るのことにはある種の面白さはあります。それがそっちの方がおもしろいなぁ。となってきちゃって、映画も街角のケンカよりも面白いだろう。という作りになっちゃった。僕は昔を知ってる新しくあらねばならない人間ですから、街角のケンカなんかより、映画はずっとおもしろいだろう。むしろ映画を見てたら面白くて街角のケンカなんてなくなるよ。と。ついでにいえば戦争だってなくなるかもしれないよ。と思わせてやる映画を一所懸命創ってやろうというのが僕が信じる映画で、それが「ファンタジー」ですから、そういう意味で「ファンタジー」を作ろうと生きてきた。だから「ファンタジー」というのは、生の生き方であって、どのように生きれば「ファンタジー」のような生き方になるのか、間違えて街角のケンカのような生き方になるのか。ここ3、40年の映画はそういうのではなくて、スキがあったら殺しちゃえ!『袖触れ合えば、多少の縁』どころか『袖触れ合えば、ケンカになって殺しあう』になっちゃってますから。2001年のあの同時多発テロは、俺達がやったと思ったんですよ。あれ映画の1場面だったら大ヒットですよ。ぐらいの映画的にチャーミングな映像ですから、テロリストは映画の夢を盗んであんな恐ろしいことをしてしまったんですよ。「STAR WARS」ですから、「STAR PEACE」を創らなかったわけですもの。

それくらい僕たちの「ファンタジー」は失われつつあるんです。「ファンタジー」を描いてきた僕も、70歳になって、お前は生者の側でだけで物を見てたな。そうか。「ファンタジー」は生者のために死の世界を描くものではなくて、もともと死者が誇らしく生きる生き方示したものが「ファンタジー」だったんだから、死者たちを称えるための「ファンタジー」を描けばいいんだと、初めて僕のファンタジーが死者のアイデンティテイーを描いたものになったんです。今までは死者に見習って、生きてるものはこういう風に生きようぜ。というものだったわけですが、死者たちがわたしたちの誇りと名誉を称えているのに変わったのです。あの同時多発テロの飛行機の中で闘った人たちは、本当に美しいですよね。残された数時間を美しく生きようとした人たちですよね、まさに「ファンタジー」だと思います。

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